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Okada Takuro オフィシャルインタビュー
(2020.06.18)

 実は、このインタビューを収録したのはアルバムが一旦完成を迎えた3月の上旬頃だった。世界はその後本格的な新型コロナウィルス禍へとはまり込んでいくことになったが、今や、誰しもがウィルスと、そしてそれによって引き起こされる個々人や社会情勢にひたりよる冷え冷えとした恐怖に慣れきってしまったようにも思える。かような状況にあっては、もちろん我々リスナーも、音楽聴取への牧歌的な意欲を以前のままに据え置くことは叶わなくなってしまった。日々洪水のようにリリースされる音楽作品の大海を自主的にクエストしてくれる、かねてより音楽産業が理想的に要請してきた体力/気力/経済力を備えた聴取主体なぞ、一様にナンセンスな想像上の存在になりつつあると感じているし、作り手たる音楽家側にしても、平時に想定していた「ぼんやりと平和な音楽聴取」のイメージが霧消していく中、かつてないほどのドラスティックな意識転換を余儀なくされたようにも思う。

 今思うなら、2011年3月11日を起点としたある一定の時間においても、ここ日本では同様の空気が醸成されていたのにも関わらず、どういうわけなのか、この社会はそのときに漂っていた低温火傷しそうなほどの切迫を忘れ去ってしまい、なんとなく今日に至ってしまっていた、ように思う。言説は溢れ、ぶつかり、戦いあい、破れ、恨みに汚れ、いつしか背景に退き、亡霊的に私達の意識の基底層にわだかまることになった。「音楽に何ができるのか」、「音楽家がすべきことはなにか」、そういう悲痛な呼びかけが祈りとなり、祈りは嘆きとなり、黒いこだまとなり、最後にはどこか(意識の彼方…?)へ染み消えてしまったようにすら思われた。
 なぜなのか。なぜこうなるのか。様々な言説は日々掛け算的にインフレーションしていくのにも関わらず、様々な場所で喧々諤々、様々な議論が交わされ、データが提出され、そして新たな言説が生まれてくるのにも関わらず、なぜ我々はこうも問題の核心から遠ざけられているように思われて仕方がないのだろうか。
 個人的に、これまでも何度となく繰り返しされてきた「(ポピュラー)音楽に政治を持ち込むな」という議論への答えとしては「そもそも持ち込まないことなど不可能である」という立場であるが、この議論が発されたその瞬間から、その問いに隠された本質部を犯罪的なまでに単純化してしまおうとする趨勢にも、そろそろなにがしかの真摯な違和表明があってもいいのではないだろうか。要するに、「持ち込むか」、「持ち込まないか」の二項対立が問題ではないのである。「ポピュラー音楽すべてが内包する政治性を、どのようなレイヤーに切り分けて論じるべきか」が問題の核心へ接近させてくれるだろう路なのだ。

 岡田拓郎という音楽家と彼が作る音楽は、もしかするとこれまで「音楽に政治を持ち込むべきでない」陣営からするとハイコンテクストに過ぎ、「音楽を政治に持ち込むべき」陣営からすると鼻持ちならない音楽スノッブだったかもしれない。でもちょっと待ってみてほしい。少なくとも森は生きている時代から彼と接してきた身としては、彼ほどに、身を切るような切実な社会意識を内在化してしまっている音楽家はいないように思えるのだ。
 シャイでシニカルな彼は、いつでも自ら発する言葉は巧みに濁してきたが、自ら発する音楽については、眩しいほどの透明性を確保してきた。その透明度と光度は、同時代に浮揚する種々の音楽の「シミ」を透かし出し、その構造を再生産してきた様々な作為あるいは不作為を告発してきたように思う。事実私は音楽産業の端くれで口に糊するものとして、彼の作り出す作品に冷徹に見据えられ、心底からハッとさせられたことも一度や二度ではない。
 いつでも彼の作品は「純音楽主義的」であったし、それがために、現代に於いて「音楽的である」こととは一体何なのかという鋭い問いかけを孕んできたが、この度登場する待望の新アルバム『Morning Sun』こそは、この時代にあって、より一層の切れ味をもって「音楽的であること」の奥部へと分け入った作品であるといえるだろう。前作EP『The Beach EP』で披露された、AOR〜シティポップ等への(『Youは何しに…』的な事象とは全く無関係で、ディープな)興味に下支えされた高品位の内容から連なる次の一歩は、いわゆる「ソング」への前進的回帰であった。フォーク・ロックやシンガー・ソングライター音楽が継承してきた繊細なサウンドと詩情を引き受けつつも、ロック・ミュージックが「取りうる選択肢の一つ」となった時代における、ここ日本で最初に実践されたもっとも精密(かつシンプル)でアクチュアルなポップ・ミュージックだ。

 「本当はポップ・ミュージックなんてやりたくない」と嘯く岡田が送り出すポップ・ミュージックは、これまで以上に純音楽主義的であり詩的でありながらも、同時に、どうしようもなく社会的なものでもある。その理由は、以下のインタビューをじっくりと読んでみてほしい。「ポピュラー音楽すべてが内包する政治性/社会性を、どのようなレイヤーに切り分けて論じるべきか」。もっとも精密な切り分け方を彼と彼の作品が教えてくれるだろう。

 この先、COVID-19の収束状況がどのように推移していくのか、あるいは第二波的再燃が待ち受けているのか……誰にもはっきりとはわからない。ただ一ついえるのは、多くの犠牲者への哀悼とともに、変わってしまったこの世界の空気をどう「保存」していくのか、あるいはどう変わってしまったのかを考え、その上で何を壊さなくてはいけないのか、何を守らなければならないのか、問題の本質部はいったいどこにあるのかを考えていくことは無益なことではないだろう、ということだ。
 今、この作品を通じて、ポピュラー音楽の「内部」と、その発信/受容/再生産の構造へ真摯に分け入ってみることで、一つの勇気ある「闘い方」の姿が見えてくるかもしれない。ただただ美しい音楽には、美しいがゆえにそういう効能も強くあるというものだ。「音楽しか聴こえてこない音楽」をじっくりと聴くことで、音楽だけが照射する様々な希望が、かすかでも見えてくるだろう。まずは音楽それ自体と、自分自身と闘っていくこと……そう、そこから再び始まるのだ。

(序文/インタビュー/構成:柴崎祐二 撮影:廣田達也)

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