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Okada Takuro オフィシャルインタビュー

ここで話題をガラッと変えて……。唐突ですが、自分の音楽が「地味だね」って人に言われるとしたら、どんな気がします?

岡田いきなりですね(笑)。うーん、特に悪い気はしないですかね……そもそも日本語の音楽って、サイズ感みたいなものが小さければ小さいほどいい楽曲が多い気がしていて。こじんまりとした良さ。たとえばクイーンみたいに、華美な装飾がされるほど日本語を伴った音楽って歪になってしまう気がしていて。もちろん素晴らしい例もあるとは思いますけどね。
問題なのは、派手であることそのものというよりも、そういう装飾的で華美で変化に富んだ音楽がシステマティックな日本の音楽産業の中でミュージシャン自身の意図を超えた次元で作られてしまいがちってことなのかもしれないですが。

いわゆる「J-POP環境」みたいな中で。

岡田そうそう。

「大人の事情が作らせる」みたいなものに加えて、ミュージシャン自身がそういう規範を無意識的に内在化してしまっているようなこともありますよね。

岡田すごくあると思います。その辺のバランス感を見極めてうまくミュージシャンを誘導するはずの裏方も一切そういう規範を疑わずにずっとやり続けてきてしまって。それが今の「J-POP的過剰さ」というべきものにつながっていると思います。珍奇なエキゾチズムとして海外の人が見たら面白いって感じるかもしれないけど、そんな音楽の渦中でずっと生きてきていると本当に耐え難くもあって……。まあ、そういう意味では自分の音楽は地味でありたいかなと。

そういう態度をアクチュアルな音楽状況からの逃避と捉えられたりもするかもだけど。

岡田いやいや、むしろいつも創作に没頭することを通して戦っているつもりですよ。音楽を作ることは基本的に辛いことばかりで……本当にエスケープするなら、ずっとハワイとかへ行っていたいですよ(笑)。

かつて、森は生きているのアルバムを評したあるレビューで、「良くできているけど音楽以外のものが聴こえてこない」といった趣旨のことを書かれたことがあったかと思うんですが。

岡田ありましたね。懐かしい(笑)。

社会的にアクチュアルなイシューと断絶した内閉的な音楽と捉えられてしまった、ということなのかもなと。

岡田まあ、森は生きているのときはまだ22歳とかで、そこまで深いことを考えられていなかったし、世の中も今ほど難しい空気でもなかったと思うんですよ。年齢的にも単純に、音楽に没入することだけで忙しかったしそれで充実感があった。でも今考えれば、絶対にJ-POPみたいな音楽はやりたくないと思っていたし、そこからもっとも離れたものを追い求めていくってこと自体が、自分の社会的な立場を貫く意志だってことは何となくですが考えていたと思います。

純粋に作家主義的であることで、当時の音楽とそれを取り巻く状況を批評していた?

岡田批評っていう意味すらもわかってなかったと思うですけど、実際にあの頃やりたかったのは、音楽を通して音楽自体の内部告発みたいなのをしたかったというのはあったと思いますね。

そこは今回も変わらないというか、よりシャープになっている気がします。

岡田やっぱりある程度年齢も行って更に自覚的になったんだと思いますし、世の中もどんどんひどくなっていると思うし。そもそも本心をいうなら、社会的な立て前みたいなものとは関係ないところにいたいし、周囲の状況に全く左右されない純粋な意味での音楽を作っていたいという気持ちもありますけど……。90年代に生まれて、かつてあったらしい社会のポジティヴなムードを知らずに今の時代を生きていると、社会的な問題に対して、どうしても人ごとではいられないし、もちろん腹も立っちゃいますよね。

うんうん。

岡田とは言え、そんな気持ちを元に、音楽を「使って」アジテートすることも、暴力的とすら言える「J-POP的感傷」をもって誰かの感情を煽るような事も、ただただ多くの人とは違う意見を提示するだけの逆張りみたいな事も絶対にしたくなくて。政治の腐敗もレイシズムも、加速主義も、ややこしくこじれた色々な問題や思想をネットニュースサイトの2行だけのトピックみたいに歌にして伝達することは不可能だし、ややこしい事柄を伝えるにはそれ相応のややこしさを持って伝えなければその問題が抱える本質的な状況が絶対に見えてこないと思います。いまミュージシャンが社会的な方向に向かっていることは僕もいいことだと思っていますが、そういう姿勢が「音楽外」の情報としてたやすく単純な文脈に回収される時代にもなっているのが恐ろしいと思います。
そうした中で、森は生きているから変わっていない僕の音楽を作るスタンスですが、普段感じている違和を重層的な詩のイメージとして連鎖させていくことが、今の時代に対して何か意味を持つことになれば……という気持ちはあります。集団的な熱狂の危うさを歴史が証明しているのであれば、人々が内省的に成熟していくしか世の中が良くなる方法なんて僕は見つからないと思う……。そもそも、こういうインタビューで勇気ある事やショッキングなことを言うために音楽を作っているわけではないですからね。当たり前だけど(笑)。

なるほど。

岡田それと、今の新型コロナ・ウィルス禍に対しての政府の対応とかをみるまでもなく、社会全体がこういう状況なのだから、自分たちが活動する音楽の現場でも、直近の経済的実損に限らず、末端的影響が構造レベルで沢山積み重なってきたと思っていて。映画なり小説なり他の表現現場でもあるとおもうし、一般の企業の中でも社会の縮図としてそういう歪み起きまくっているはず。音楽産業のシステムにおいては、J-POP的な感受のあり方の無反省なインフレ−ションこそがそういう歪みの最もたる現れだと思うし、遡って考えても、それをちゃんと批判してこなかったからこそ日本の音楽産業がここまでヒドイものになってしまったんだと思う。自分にできることはたかが知れているかもしれないけれど、正攻法で「自分の創作」に忠実に良質であるものを追求することでその状況へ少しでも違和感を投げかけたいんです。

一人の作家として、自らの音楽的信念にあくまで忠実であること、それを力強く訴えかけていくことが、鮮烈なアンチテーゼになる、と?

岡田そう。たとえば、政治的なメッセージに賛同できたとしても、結局音楽自体がめちゃくちゃ普通だったり、J-POP的な規範の範囲に留まる限り、そのアーティストは本質的なカウンターにはなりえないじゃないかとじゃないかと思うんです。僕の意見としては、循環的で自明的な音楽観から逃れられていないポピュラー・ミュージックが世の中に対して真にオルタナティブであることなんてないとおもうけど、お手軽なSNSジャーナリズムみたいなものに象徴的なように、多くの聴き手も論じる側もそんな矛盾は二の次で、ミュージシャン本人たちですら気にかけてない、ということがすごく多い気がする。

まさに今こんなインタビューをしておいてなんですが……(苦笑)、岡田さんは、音楽に付随する外側の言説への肥大を常に警戒しているように感じていて。

岡田はい。

音楽的審美眼が涵養されていないのにも関わらず、外側の言説ばかりが肥大していくのは不健全である、と?

岡田そう、ものすごく違和感があります。

でも、もしかしたら伝わりづらくてややこしい音楽的含蓄や修養を捨て去ってまで、外側の言説を肥大させることによって、社会構造へ一撃を加えようっていう戦略もありうるかもしれないですよね。

岡田もちろん、各人が表現者としてそういう戦略をとるのは自由だと思うんですけど、受け取る側がやたらとその外側の言説ばかりを最も重要なトピックとして便利に称揚するのはどうなんだろう……、という。創作と社会的な要素は相関的なものだというのも理解しているけど、僕たちはなによりもまず音楽家なのであるなら、「社会が抱える問題の話をします。音楽はまあ大体こんなもんでしょう」っていう曖昧さは危うい話だと思います。

社会的実践性を伴った姿勢に賛同するとしても、まずは持ち場として硬直した音楽産業の歪みを、あくまで音楽創作行為とその作品性そのものによって突き崩すべきだ、と?

岡田うーん、僕はそう思いますね。音楽に対するスタンスが曖昧であるなら、社会に対しての貫通力を保持する事が出来ないと思ってしまう。

音楽の「外側」ばかりがクローズアップされて内容それ自体への語りがおざなりにされるなら、もしかしたら音楽が本来持つ社会的パワーを相対的に減殺することにすらなるかもしれない……?

岡田そうですね。

では、そうした構造化において、改めて自分の作家性に誠実であること、それを仮にいわゆる「インディー」的な姿勢ということだとすると、どういう戦略をとっていければいいと思いますか?

岡田それはまさしく僕も知りたいですね(笑)。うーん、なんだろう、ちょっと大きな話をすると……。オノ・ヨーコとジョン・レノンが“War is Over If You Want it”という広告を出した時の話なんですけど、彼らが抱いていたのは、一般的なイメージとは違っていわゆる理想主義的なものじゃなくて、額面通りに『War is Over』や『LOVE AND PEACE』というスローガンを全面的に信仰するわけじゃなく、ただこの時代に自由であることや平和であることに「チャンスを与える」ためにああいう広告を打った、というのをどこかで読んで。誰しもが望む平和っていうのは、考えてみれば人間皆が成熟すれば簡単に起こりうることなのにもかかわらずそうなっていない。だから、平和でないことはあくまで問題の「現れ」であって、いつまでたってもほんとうの意味の成熟が現れないこと自体が問題の本質だ、と。

なるほど、説得力がありますね……。

岡田だから、個人であること、ここではそれを「インディーであること」と言いかえるなら、ある種の成熟や冷静さみたいなこととそれは強く連関しているものだと思っていて。

一方で、インディーという概念を牽引してきたポピュラー音楽たるロックは、冷静の反対側にある熱狂をカンフル剤にして支持を得ていったというのもありますよね。

岡田たしかに。

そのロック的熱狂っていうのは、「若者の反乱」というのと同時に、資本主義体制下における商品経済的熱狂ともいえるかもしれない。

岡田そうですね。

冷静や成熟を独立的な作家主義だとして、熱狂を資本主義的要請だとしたら、そのふたつの極で引き裂かれるのが、ポピュラー音楽やロックというものの固有的特色なんじゃないかと思っていて。たとえばブライアン・ウィルソンとか。あんなに作家主義的なのに、異様なほどにポップ(大衆的)ですよね。

岡田なるほど。

本来、そんなに資本主義が嫌なら非商業的なアヴァンギャルドを極めればいいわけだから。けど、ポピュラー音楽というのは、むしろその引き裂かれの度合いが強いほど、他に得難い緊張感と歴史的耐久性を獲得するんじゃないかなと、と。つらつら話してしまいましたが、岡田さんの音楽からはまさしくそういう魅力を感じるんですよ。

岡田ははは。たしかに引き裂かれている気がしますね……だからこんなに日々辛いのかな(笑)。さっきも言いましたけど、本当は世の中に何の不満もなかったら、ずっと家で一人歌のない音楽を作って、純粋に音楽としてこんなの聴いたことがないというものを追求していたいんですけどね。周りの音楽とか、周りの世の中とか全然気にせずひきこもって。けど、やっぱりどうしてもそうなれない自分もあって。
でも、今のようなシステムの中だとやっぱりどうしても思うことがあるし、自分がジョン・レノンやルー・リードとかの音楽を聴く中で体験してきた感動もあるので、自分でもポップスをやりたくなってしまうということなのかもしれません。もちろん、キャッチーな旋律や綺麗なハーモニーとか、ポップスの音楽要素それ自体にも魅力を感じているということだとは思うんですが。

ルー・リードだって、あんなにひねくれているのならグラマラスでポップな音楽をやらなくてもよさそうなのにも関わらず、結局ずっとロックを作り続けていたわけで。

岡田そうですね。『メタル・マシーン・ミュージック』の作者でありながら、ドゥ・ワップのシングル・コレクターであるっていう。すごくシンパシーを覚えますし、その両面があるから彼の音楽は素晴らしいんだと思います。
まあでも、もっと牧歌的に、ポップスというものの定義が「とにかく良い曲の音楽」みたいなことだと考えるなら、そういう引き裂かれの状態こそポップスの魅力っていうのも音楽をとりまく選択的な言説の一つ、と思えてしまったりもしますね。

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『Taxi Driver』Music Video / Gotch