Okada Takuro オフィシャルインタビュー
少し話題を変えます。ポピュラー音楽において、絶対的な審美性というべきものって存在すると思いますか?「この曲は正しい、美しい」あるいは「この音楽は間違っている」「この音楽はダサい」とかを決する絶対的な価値基準というものがあると思うかどうか。
岡田うーん、僕の個人的な好みとしてはもちろんはあるけど…それを絶対的なものとして強要したいとかはないですね。この音楽は「本質からして」かっこ悪いものだ、みたいなのはあまり感じないですかね。
なるほど。で、話が少し戻りますが、あらためてそういう相対的な見方を前提とする中で、J-POP的なるものを強く忌避する理由ってなんなんでしょう?
岡田僕がJ-POPに違和感を感じているのって、みんな判を押したように構造的に似たようなものを量産していく規範性みたいなものだと思うんです。「A、B、サビ、間奏、A〜」みたいな再生産されてきた構造を対象化しているか、あるいは取り込まれてしまっているか、音は大抵はパッと聴けば明確にわかる。まあ、そこの違和感をスルーしてしまっている音楽って、J-POPじゃなくてインディーの音楽でもたくさんあると思けど、僕には耐え難い。アレンジやメロディー、音像や言葉の扱い方にも言えると思う。
たとえばダーティー・プロジェクターズを聴くけどJ-POPも好きですみたいな感覚の人って少なくないと思うんだけど、僕にはその二重基準がよく分からない……。
でも、「ポップスは沢山の人に聴かれなければ意味がない」「良い音楽は売れる音楽」みたいな言説もありますよね。
岡田あ〜……そういう言説については、別に何とも思わないですかね。ポピュラー音楽って、純粋な人たちからは猥雑な広告的世界からは離れた神聖なものとして感受されがちだけど、そこでの大衆的な熱狂状況を、マーケティング的な視座からおこがましくも操作的に作り出そうとする業界的な思惑が渦巻く状況こそが、この数十年とくに日本においてポップスをここまでつまらないものにしたと思っているから……今更なにを言ってんだ?と思ってしまいますね(笑)。
そういうマーケティング的再生産構造が自明のものとしてあるJ-POPが気持ち悪いと思うかどうかという話は、芸術的次元としてどちらが高尚かっていう議論ではなく、ある種の受容論における議論だ、と?
岡田そうだと思います。もちろん「J-POP」という文化が地球上からなくなって欲しいと言っているのではなくて(笑)、あくまで日本のポップスが歩みうる別の道についてちゃんと考えたいという話しです。その上で改めて、いまのJ-POP的再生産構造に象徴されるような短絡的で硬直した思考の状態は、今の社会全体における閉塞感とただただ密接しているように感じるという話ですね。
なんというか……そういう思考を促してくれるという点でも、この作品は面白いと思います。
岡田でも商業的には、こういった音楽から世の中で淘汰されていきますよね……(笑)。
いや、長期的には淘汰されないんじゃないでしょうかね。
岡田そう望みますが……。
今後はどういう音楽を作っていきたいですか?
岡田今は本当にナイーブな気持ちで……、何も考えられないモードに入っていて、とにかく非ポップスで歌のないものを作りたいと思っています。
アンビエントとか?
岡田いわゆるアンビエントとも違う、もっとディープに音楽としての外郭ギリギリのところに立ち入ったものを作ろうと思っています。すごく長くて、音像的にも空間があって時間的にも間があって、メロディーやビートもない。ある時間内での空気の振動が音楽であるなら、その要件を極端に純化しただけ、みたいな曲を作ろうと思っています。
もしかしたら今回ポップスであることに自覚的に取り組んだことを経て、精神の自浄を求めているのかも…?
岡田もう周りを気にしながら音楽を作るのが辛くて……。本質的な意味で社会から隔絶されたものを作り出せるのかどうかという興味もあります。だから「音楽しか聴こえてこない音楽」の究極系を目指せるかどうかという話でもあるかと思います。
そういう試みを理論サイドから突き詰めていくとおそらく現代音楽的方法論に重なっていくと思うんですが、岡田さんの場合、身体的快楽性や美しさといった視点からアプローチしていくのかなと予想するんですが、どうでしょう。
岡田そこはやっぱりそうなると思います。楽器演奏者だし、元々ブルース・ギタリストなので。どういう音楽になるか、今のところ自分でも予想がつかないんですが。