Okada Takuro オフィシャルインタビュー
まず、前作の『The Beach EP』(2018年)から今作へ至る流れについて訊かせてください。前作はAORやシティポップ、バレアリック的なものを感じさせる作品だったように思います。当時を振り返って、なぜそのような音楽を作ろうと思ったんでしょう?
岡田ここ数年、強いて言うなら2016年以降、歴史を継承しながらゆっくりでも新しい可能性や美学を模索してきたロックが、「新しい」言説を纏いテクノロジーを駆使した音楽に対して、到底追いつくことのできない時代遅れなものになってしまったような気がしていたんです。一方で日本に目を向けると、ちょっと古い音楽や海外の音楽をかじった若手バンド達が、なんでもかんでも雑に「シティポップ」と呼ばれていて(笑)。これは、本当に昨今の音楽ライターの手抜き記事が悪いとおもうけど……いや、話を戻すと、そういう状況の中で、徹底的に「本来の」シティポップをオマージュするというアイデアが生まれました。当初のそういうシニカルな思惑に反して、この制作は久しぶりに音楽を作ることを楽しめたんです。嬉しいことにリード曲「Shore」をはじめアヴァンギャルドな方法論で作った曲含めて評判も良かった。で、そのアイデアを更に押し進めて、オマージュから先に進んだ視点で取り組んだ優河ちゃんの「June」のプロデュースでとても良いフィーリングが得られたので、その流れを汲んで自分のアルバムも作ってみようというのが初期段階の計画でした。
でも、でき上がった今作『Morning Sun』では、そういう音楽要素は希薄なように思います。
岡田作りはじめてみて、そういった構造を持つ曲はいくらでも書けるのですが、自分の歌唱力でかつ日本語という拘束があるとどうしても歌が上手く乗せられないという問題に直面して。そんな中、色々な方法を模索しているうちに、時代性とかも関係なく、これまで自分がずっと好きだったもの、それを自分自身ができる力量の中で正直に表現した作品を作るという方向に舵を切ることになったんです。なので、当初からSSW的なサウンドを作ろうとしたわけではなくて、できる範囲のことをひとつひとつ模索していくなかででき上がってきたのがこういったスタイルだった、ということですね。
なるほど。
岡田これは後付けかもしれないけど、ヴァンパイア・ウィークエンドとディアハンターが2019年に出したアルバムを聴いて刺激を受けたっていうのもあると思います。北米にいれば、僕なんかよりもずっとうんざりするくらいトラップのビートとかエレクトロニックなヒップホップやR&Bにさらされていると思うんです。もちろんそういう音楽も素晴らしいし、僕も刺激を受けることもあったけど、そういう音楽がメインストリームになっている中、これまでバンドをやってきた人たちって自分たちがこの先どうすればいいのかわからない状況にあったと思うんです。でも、彼らはそういう流行に追従するのをいい意味で諦めたと思うし、自分にとっての「新しさ」を、自分の得意なことの中で更新していく地平に達したと思っていて。なので、久々に新しい音楽を聴いて感動したんです。
その間、アンディー・シャウフとかキャス・マコムスとか、音響偏重のパラダイムとは違った魅力をもったシンガー・ソングライターが地道に活躍していたり、魅力的な音楽は間違いなく生まれつつあった。そういう状況の中で、自分がどういう音楽を作るべきか改めて考えたとき、歌い方の試行錯誤含めて新しい道が見えた気がして。
アンディー・シャウフやキャス・マコムスなどの音楽には、岡田さんが元々から好きだったオーセンティックなフォーク・ロックに通じるテイストもありますよね。自分の中で、「やっぱりこういう音楽が好きだ」と再発見したような感覚もある?
岡田それはすごくありましたね。また2016年位の話ですけど、その頃って「新しいものを好きじゃなきゃいけない」みたいな感覚が音楽好きにはもちろん作り手にも広く浸透していたと思うんですよ。「君、いつまでニール・ヤング聴いてるの?」ってわざわざ言う話でもない、ってくらいに……。
「ロックとそのフォーマットはまず乗り越えられるべきもの」という言説がもはや前提的なものになっていきましたよね。
岡田そうそう。昔から好きな音楽に比較的忠実だと思う僕ですらその時期はシンガー・ソングライターとか聴く気にならないくらい切迫した雰囲気があった。でも、一方で、大多数の人たちにそういう意識が浸透していくにつれて、ただ状況を追いかけただけのような面白くない音楽も増えていったし、むしろ最近になってからはフォーク・ロックとかシンガー・ソングライター系の音楽がナチュラルにいいなと思えるようになった、というか。
ロック的フォーマットや言説がポップ・ミュージックの覇権的位置から徹底的に引きずり降ろされたからこそ、そこに付与されていた神話性とか絶対性が剥奪されて、むしろ多様な音楽形態の中で魅力的な選択肢として再び浮かびあがってきたという感覚があります。
岡田まさしくそうですね。
今作において、これまでの曲作りのスキームから変化した部分はありますか?
岡田はい。今回はなによりも、ちゃんと歌を聴かせられるメロディーのいい曲を作りたいというのがありました。もちろんいつもいいメロディーを目指しはするけど、メロディーをサウンドに溶かし込むのではなくて、歌が中心となる「いい曲」を目指しました。今まで歌は全体の中で3番手4番手くらいのつもりでやっていましたからね(笑)。それと今、サウンド・デザイン的に歌が小さい音楽はそれだけで古臭く聴こえてしまうっていうのもあるし。
あ〜、はい。
岡田日本語がうまく乗りづらいロックのビートに付随するメロディーをぼやかすために、ボーカルが小さくて、なんとなくテクスチャーとしていい雰囲気を放っているみたいな音楽に飽きたというか。そういう作り方は簡単だし、僕自身今までやってきたことでもあるんですけど…。
たしかに、当初「歌が小さいミックス」っていうのはそれまでの王道的ポップスや歌謡曲的なものへのアンチテーゼとして機能していたわけだけど、小さいということが常態化してしまうと、一体何なんなんだろうっていう……。
岡田そうそう。
「日本語をメロディーに乗せる」という森は生きている時代から自覚的に取り組んできた課題へ、今回は更に深度を増して向き合ったということでもある?
岡田そうですね。でも、「こういう雰囲気の曲でこういうメロディーでこういう風に歌うとなんとなく日本語が野暮ったく聴こえない」みたいなことって、セオリーがあるようでいて無い、というか。結局、即興的に生まれた断片を自分の持っているロジックとともに行き先を決めずに発展させたものが、最終的にボツにならず世に出せる事が多くて、今回もそういった形で楽曲を書いていきましたね。メロディーや歌詞も何回も書き直して……。うまく歌える/歌えないということにも増して、いい塩梅のところへ落とし込むための作業。歌唱法についても、たとえばこれまでのようにリヴァーブとかに頼りすぎるとかでなくて、限られた力量ではあるけど工夫して頑張ってみました。もちろんその一方で、繊細なイコライジングや定位の調整についてもいつも以上に細かくやっていきましたけど。